俺の歴史w その5 ~1993~の続きです。
この年はNA(国内A級)に昇格し、マシンもSPからGPへと変更した割には前半の成績が良かったんですよ。
昇格後すぐのレースで入賞したんじゃなかったっけかな?
そんな事もあり、テクニカルスポーツの6耐にAチーム(FCCカラー!)で出させて頂ける事になりました。
思えばそのころは調子に乗ってて、天狗になってたような気がします。
6耐は相方の田村浩司選手のタイムで予選3番手。
しかし決勝は自分が乗ってる時にシフトミスにより転倒・・・しかもTOP走行中(泣
その後修復して再スタート。天候不順(降雨)もあり荒れたレースで12位完走と相成りました。
TSRにて”役立たず1号”という呼称を付けられかなり凹みましたね~。
(ちなみに2号は眞子智実選手。4耐でポールスタート(だったと思う)からスタート失敗、最後尾近くから1周目のシケインまでに4番手に浮上し転倒!というかなり激しい内容でしたw その後の活躍は有名ですよね!)
そんな耐久後は調子を崩し、さっぱりなレースが続きました。
そして10月28日、朝早くに1本の電話が。
山谷さんが亡くなった。
一瞬何を言ってるのか解らず、嘘やろ~と。
当然そんな嘘を付くはずも無く、山谷さんは心不全により29歳という若さでこの世を去ってしまいました。
何も恩返しもしてないのに。
これからだって時に。
未だに山谷さんは自分の中で大きな存在で、
その後の僕の人生で事ある毎に「山谷君(君で呼んでた)ならこう言うやろうな~」とか「山谷君がおったらこういうの好きやろうな~」とか考えてます。
山谷君はいないけれど、山谷君が繋げてくれた方々には未だにお世話になっていて(FUSEやBABYFACEはその頃からのお付き合いでお世話になっています)、山谷君がいなければ自分はレースを続けていなかったかもしれません。
翌94年や95年に出会った自分のレース活動に多大な影響を与えてくれた方々と共に、
山谷君は自分にとって心の拠り所で、そういう人と過ごした92~93年は忘れられない年となりました。
ちょっと重い話になっちゃいましたが、次は1994年です!